対戦成績の偏りが、顕著な組み合わせがあったりする。
ただ、勝敗のアンバランスさや、実力者がなかなか結果を出せないことに、ちょっとしたきっかけを振りかけることで、一気に状況が反転することは、よくあることではある。
そこで前回は最初こそ中原誠十六世名人に水を開けられたが、その後は差を縮めていった米長邦雄永世棋聖の例を挙げてみた。
こういうのは調べてみると、なかなかおもしろくて、たとえば昔は羽生善治九段に相性が良い「羽生キラー」と呼ばれた男たちがいたもの。
まずは田中寅彦九段で、若手時代の羽生相手に初対戦から、なんと4連勝。
中でも四冠王(棋聖・王将・王位・棋王)で「七冠ロード」を走っていたA級順位戦で勝ったのは大きな星。
これで名を上げた田中は後に「羽生世代」と呼ばれる少年棋士たちをあつかった本を出版したりもしたが、その後は5連敗と歯が立たなくなった。
田中の次に対羽生戦で名をあげたのが、日浦市郎八段。
初対戦からは1勝5敗とタタかれていたが、そこから3連勝して注目を集める。
特に3つ目の勝利となった1989年の新人王戦(準々決勝)では、そのまま勢いに乗って優勝したのが大きかった。
これにより日浦は「ハブの天敵」というところから「マングース」と名づけられ、その後は1勝もしてないものの、イメージ自体は長く続いたのだった。
そこから、さらなる「羽生キラー」に深浦康市九段が登場。
デビュー当時から高勝率だった深浦は、1996年の第37期王位戦で羽生六冠に挑戦。
そこでは1勝4敗と蹴散らされるが、2007年に再度挑戦権を獲得すると、今度こそ羽生から初タイトルをうばうという大戦果をあげる。
次の年も羽生相手のリベンジマッチに勝利して防衛。
さらには王将戦で羽生王将を3勝2敗と追い詰め、「二冠」のチャンスもあったほど充実していた。
このころの深浦と羽生は対戦成績がほぼ五分で、「羽生キラー」と呼ばれたのだ。
勝率50%で「キラー」というのも変と言えば変だが、この当時の羽生に5割も勝てる棋士が他に居なかったので、こういうことになったのだ。
ただ、深浦の殺し屋人生も長く続かず、王将戦で2連敗し二冠を逃すと、1勝をはさんでから、なんと10連敗。
この間、棋聖戦で2度ストレート負けしているから、そうとうにキツイお返しだ。
そこからも、なかなか勝てず、王将戦第6局から現在まで7勝23敗。
とんでもない過剰防衛で、深浦に「羽生キラー」という言葉を使うものは、すでにいなくなっていたのだった。