「高野山の決戦」といえば、今でも昭和将棋界の語り草である。
将棋の世界で「決戦」というと、思い浮かぶのは3つ。
ひとつは「阪田の初手△94歩」で知られる、木村義雄と阪田三吉による「南禅寺の決戦」。

ふたつめは南禅寺とくらべると、やや地味だが、やはり阪田と花田長太郎が激突した「天龍寺の決戦」。

そして「高野山の決戦」。
それぞれにドラマチックな背景があり、まさに「決戦」の二文字がふさわしいが、中でも将棋の充実度と結末に襲ってくる衝撃でいえば、これはもう高野山が圧倒的に抜けているのである。
1948年の将棋界で、名人挑戦を決める戦いは混迷を極めていた。
この年行われた第2期A級順位戦では、升田幸三八段が12勝2敗のぶっちぎりで優勝。
今なら、これにて文句なしに塚田正夫名人への挑戦権獲得だが、これがすんなりと、そうはならなかった。
というのも、このころの挑戦権争いのシステムというのが少々変則的で、A級では1位から3位までがプレーオフに進出。
プロ野球のクライマックスシリーズのようだが、さらに、そこになぜかB級1組の1位になった棋士もふくめて、4者で戦うことになるのだ。
この期はA級1位が升田幸三、2位が9勝5敗の大野源一八段、3位が同じく9勝5敗ながら順位下位の花田長太郎八段。
そして、B級1組からは大山康晴七段。
そもそもが、ちょっと不思議な方式な上に、ここに大山の名前が加わってきたことが、のちの禍根を生むことになる。
ちなみに、この時代のA級のメンバーというのが、
木村義雄前名人
大野源一八段
萩原淳八段
土居市太郎八段
加藤治郎八段
坂口允彦八段(休場)
升田幸三八段
花田長太郎八段
村上真一八段(坂口の代わりに補欠参加)
というのだから、ほとんど「歴史上の人物」。
へー、木村義雄の名前が順位戦の表にあるってのがめずらしいなあとか、坂口の休場の理由が、
「チェスのために第2期 - 第4期のA級順位戦を3年間休場するという、異色の経歴を持つ。終戦直後、敗戦で自他ともに自信を失った日本人全体に対して、チェスではアメリカ人と対等に戦えるということを示すため、奮起してチェスを独学で学び、チェスのプロに転向」(ウィキペディアより)
とか、ますます歴史の授業である。おもしろいなあ。
さてプレーオフの方はパラマス方式で、まず花田-大山戦は花田の体調不良による大山の不戦勝。
続く大野-大山戦は、2勝1敗で大山が勝ち(なんと最終決戦でもないのに3番勝負だったのだ)。
そして、ついに名人挑戦を決める最後の3番勝負は、高野山の普門院で行われることとなった。
升田の本やインタビューによると、病体で(升田流は「病気」ではない、「気は病んでない」から)調整のむずかしい状態の自分に、高野山の寒さは不利になるとかなり難色を示し、またB級からの参加者がいる違和感からも、
「大山や、大山びいきのスポンサーの嫌がらせ」
とまで言っていたそう。
当時の名人戦のスポンサーは毎日新聞で、升田は朝日新聞の嘱託だったから、そういう「派閥争い」的な、しがらみもあったのか。
今では考えられない変な挑戦システムと言い、なんらかの「大人の事情」があったことは十分に考えられるが、まあ升田の被害妄想かもしれない。
こうした、ライバルであり兄弟弟子でもあるという因縁に加えて、政治的なドロドロも引きずっての対戦が、またこの時代の味でもある。
第1局は大山が取り、第2局は升田が快勝。
最終決戦の第3局は、升田が先手で相掛かりに。
序盤から、升田がすかさず横歩を取るフットワークを見せると、大山は手得を生かして中央から盛り上がりにかかる。

先手の三歩手持ちも大きいが、後手も5筋を制圧し、主張が通っている形で大山もまずまずと考えていたよう。
ところが、この局面はすでに升田の手の平の上だった。
次の手がすばらしく、まずは先手がペースを握るのだ。
(続く)























































































