前回の続き。
中原誠王位(名人・棋聖・十段)に米長邦雄棋王が挑戦した1979年、第20期王位戦七番勝負は両者ゆずらず最終局に突入。
おたがいの意地がぶつかったか、相矢倉から第6局とほぼ同一局面に進むが、そこから穴熊を志向した米長の構想が疑問で中原が大きなリードを奪う。
このままいけば中原の圧勝で防衛だが、ところがこれが、そう簡単にはいかない。
原因は中原の「油断」。
思わぬ大量得点に対戦成績での相性の良さもあったか、ここから少しずつ甘い手が続いていく。
たとえば▲58飛の角取りを△51飛と受けたところ。
次に△77角成からの素抜きをねらって、この手自体は悪くないのだが、米長からすると
「ありがたかった」
後手のねらいは▲55飛と切らせて、2枚飛車で攻めれば勝ちが早いということだが、▲55飛、△同飛に▲63角から馬を作って、まだねばれると。
また、▲63角、△31玉、▲74角成に△59飛成が自然なようで精査を欠いた手。
ここは△58飛成が勝っており、△59に成ると本譜のように▲68角と当ててから▲59歩の底歩でがんばる余地がある。
▲68角、△29竜、▲65馬に△19飛も逸機。
これまた普通の手のようだが、ここでは△57歩と打って、▲59歩、△58歩成。
▲同歩と底歩を消してから飛車を下ろせば、先手は▲79銀と貴重な持駒を手放さざるを得ず、反撃手段を封じて後手の安全勝ちだった。
中原からすればド必勝なので、△19飛、▲59歩、△17飛成と駒を取って、先手に手がないから自然に勝てると踏んでいたが、実はこの局面はそこまでの差がついてはいなかった。
「名人はこの辺り大楽勝と思って、読みが雑になっていたようだ」
そう感じていた米長は、ここがチャンスと△17飛成に▲24銀と反撃を開始。
こういう手があるから、後手はきめ細かく指して先手に銀を吐き出させておくべきだった。
△同銀は▲同角で角がさばけるから△22香と受けるが、▲23銀成とうすくしてから▲54銀で勝負とせまる。
△42金引、▲48銀、△18竜、▲57角、△58歩。
この歩がまた微妙な手だった。
▲同歩なら△19竜上で「鬼より怖い二枚飛車」に受けがないし、放っておくと△59歩成から「まむしのと金」でにじり寄っていけばいい。
ということだが、この手自体は確実がゆえに相当スピードを欠いており、米長の弟子である中村太地八段も、
「と金を作って横から攻めるのは時間がかかります。(中原王位は)相当良いと思っているかもしれません」
やはりそこに「油断」のにおいを嗅ぎ取っている。
そうして物語は、クライマックスに突入していく。
△58歩に米長は▲74歩と突きだして角の活用を図る。
△59歩成に▲75角。
中原はここが決めどころと、夕食休憩をはさんで慎重に28分考えて△48竜と切り飛ばす。
ここが両者の、いやもっといえば米長邦雄の運命を左右した局面だった。
これを見ただけなら、だれもが「後手必勝」と断ずるところで、米長自身もそれは認めている。
△48竜に▲同角は△58とが、△79銀からの詰めろ角取り。
▲59歩など受けても△48とと角を取って、後手陣は安泰だから中原の防衛が決まる。
だが、次の手を米長はねらっていた。
▲67金寄。
なんと取れる竜を取らずに玉の逃げ道を開けたのが、まさかという1手だった。
控室でも棋譜の間違いではないかと驚いたそうだが、それもわかろうという奇手。
投了もあると思っていただろう中原は、この手を見て大長考に沈む。
そうして、66分後に指された△99銀が敗着で、▲77玉から上部に脱出して先手玉は捕まらない。
この手のおもしろいところは、この金寄りが本当に「正着」かどうか、わからないところ。
実際、△99銀では△79銀なら中原勝ちと結論付けられてはいるのだ。
つまりは▲67金寄の時点で、正確にはまだ逆転はしていない。
しかし、そのような結論はここではあまり意味がない。
なぜなら、この一着は「泥沼流」米長が指した
「相手を誤らせる手」
という善悪を超えた意味があるからだ。
将棋というゲームはどんな大差でも悪手を指せば追いつかれるし、それを連打すれば0対100でもひっくり返る怖ろしいもの。
事実、この手を見た中原は、
「わけがわからなくなった」
頭を抱えたという。
この一局は『先崎学&中村太地 この名局を見よ! 20世紀編』という本でも紹介されているが、▲67金寄に関しては、
中村「渾身の勝負手」
先崎「高級なハメ手」
表現が分かれており、では米長本人はこの手をどうとらえているのかと言えば、
「摩訶不思議な絶妙手」
興味深いのは、それぞれに表現はちがうけど、おそらく言っている意味と意図は同じということ。
つまりこれは理屈を超えた「摩訶不思議」で「高級」な「渾身」の「勝負手」で、この局面では唯一無二の「絶妙手」であり、同時に中原に△99銀という敗着を指させた「ハメ手」なのだ。
そんなすごいコンボが、この土壇場に飛び出るところが米長将棋の魅力である。
そしてそれが、一生に何度もないであろう中原の「雑な読み」と合わさったとき、とんでもない化学反応が起こる。
この手に△79銀なら後手が勝ちではあるが、米長によれば、
「既に将棋の流れがおかしくなっているので、▲67金寄のあとは後手勝てないと思う」
つまりこれは「ミスを誘う」という意味では「勝負手」「ハメ手」ではあるが、「流れ」の点では変な言い方だが「必然」の逆転劇であり、その点では「絶妙手」でもあるのだ。
とまあ、私のヘボい解説ではうまく伝わらないが、雰囲気だけでも感じてほしい。
理屈に合ってないが、これこそが「不完全」な人間のおもしろさだし、将棋観戦の醍醐味なのだ。
ド迫力の大逆転劇で、ついに米長は中原からタイトルを奪取。
敗れた中原は
「この将棋を負けるとは思わなかった」
そう述懐し、大きなショックを受けたという。